古代でござる 
二十四節気ってなーに?

太陰太陽暦の不都合

太陰太陽暦の成功
 中国を中心とする東洋では、とても難しい「太陽と月の運行を関連づけること」に成功し、「太陰太陽暦」をつくり、改良を加えてより精巧なものにしてきました。江戸時代末期に我が国の作った「天保暦」が、現在では、世界で最も精巧な太陰太陽暦といわれます。私たちが、ふだん使っている太陽暦のカレンダ一の日付けの下に小さく「旧○月○日」と書かれているのが、天保暦に基づくもので、今では神社などが出している「伊勢暦」などもこの一種です。


太陰太陽暦は月と日付が一致したもの
 しかし、この正確な「太陰太陽暦」にも弱点がありました。太陽の運行と月の運行を、数値的に合わせることはできたのですが、これは所詮、「太陰」つまり「月」を主にした暦であったということです。したがって、日付を見れば、なれた人なら、その日の「月の形」も、「月の出の時刻」も分かります。例えば、毎月、3日に出る月は、月の右側が光る弓形の月で太陽が出てから、一時間半くらい後で出て、太陽が沈んでから、一時間半くらい後まで、夕闇の空に輝いている、いわゆる三日月であること。七日八日頃の月は、右側半月で、お昼頃出て、夜半に沈むこと。十五日は、満月で、太陽が沈むのと入れ違いに出て、太陽が昇るときに沈むこと。二十二,三日は、左半月で夜半に出て、翌日のお昼頃沈むこと、などです。
 このように、太陰暦は、日付は月の形(月齢)の一致を重視するため、太陽と日付の関係を切り捨てざるを得ませんでした。(太陽暦は月と日付の関係が無視しました)

季節と農作業
 一方、太陽の運行は、季節の移ろいなのです。暖かくなって昼と夜の長さが同じ日(春分)が過ぎた頃、草木は芽吹き、桜が咲き始めます。昼の長さが最も長い日(夏至)がすぎれば、次第に暑くなります。人々は、季節が太陽に関係していることを知っていました。
 また、動植物の生育も季節と密接でした。梅雨の頃
、稲を植え付ければよく生育します。木の葉が散り始めると、収穫の時期が来ることも知っていました。牧畜の民も草の生育に合わせて移動しなければなりませんでした。
 このように、農作業は、月の形とは関係なく、季節(太陽の動き)と関係が深いことを知っていました。もちろん、太陰太陽暦も、ほぼ季節にあってはいます。一月、二月、三月は春。四月、五月、六月は夏。七月、八月、九月は秋。十月、十一月、十二月は冬です。でも、一か月29,53日の12倍は、354日になるため、たとえ閏月をおいて調節しても、毎年、季節といくらかのずれは否めませんでした。時には一か月以上もずれることもあるのです。このような季節とずれのある暦では農作業のたしかな基準にはならないのです。人々は人間が生きる為の糧を得るに、正確な季節の表示、つまり太陽暦を必要としました。

東洋の作った太陽暦 二十四節気

二十四節気とは
 こうしてできたのが二十四節気という優れた太陽暦でした。東洋では、かしこくも、これを「太陰太陽暦」と併用してきたのです。本当に古代の人の知恵の深さには驚きます。

 では、二十四節気というのは、どのように作られているのでしょう。それは簡単です。一太陽年(地球が太陽の回りを一周する時間)を24で割った暦です。
 
 古代人の天体観測の技術は、驚くべき正確さでありました。それ故にこそ、太陰太陽暦なるものを作り出すことができたのでしたが・・・。 
 一太陽年が365,24220日に近い数値であることは、既に、太陰太陽暦が成功した時点で、知られていたことでした。(中国では、戦国時代ごろ、マヤでは驚異的で、紀元前六,七世紀に一太陽年を365,2420と観測していた)
 それで、365,24÷24=15,218となり、一節気を約15日としました。そして約15日ごとに、季節を表す名称をつけました。

二十四節気の名称 
 立春、雨水、啓蟄、春分、晴明、穀雨、立夏、小満、芒種、夏至、小暑、大暑、立秋、処暑、白露、秋分、寒露、霜降、立冬、小雪、大雪、冬至、小寒、大寒です。
 基点は、古くは観測の容易さから冬至でしたが、現代では、春分点です。
 24の名称は、それぞれ美しい言葉で季節を表しています。立春が年初めです。それから15日たって雨水、また15日たって啓蟄といったぐあいに15日ごとに季節の移ろいを表します。

二十四節気あれこれ
 季節の初めは、立春、立夏、立秋、立冬です。立春は一年の基点で、八十八夜、二百十日などもここから数えた数字です。八十八夜に茶摘みをし、種を蒔き、稲の開花期の二百十日に台風を警戒しました。また立春、立夏、立秋、立冬の前日は、季節を分ける「節分」です。また、そのまえ18日間は「土用」といって、土を休ませました。人間の身体もやすませ、栄養をとりました。「土用のウナギ」「土用餅」「土用しじみ」「土用卵」「土用灸」などといわれます。このように、古くは節分も土用も、年に四回ありましたが、現代では「節分」といえば、冬から春への分かれ目、「土用」といえば、夏の土用をさすようになりました。昼と夜の長さで、春分、夏至、秋分、冬至を決め、一年中で最も暑い時を「大暑」、最も寒い時を「大寒」としました。数値のメカニズムに当てはめた言葉の確かさに「うーん」と舌を巻きますね。

 以上のように、中国文化圏では、太陰太陽暦と二十四節気を併用して生産・生活のリズムを保ってきたのでした。

にもどる     ご意見ご感想は konohanasakuya@attglobal.net