古代史散歩
壬申の乱の舞台を訪ねる
大津 弘文天皇陵  京都市山科区 天智天皇陵
 


さざなみの志賀の都
                            

 長等山前の森の中で最期の時を迎えたとき、大友皇子は、ここに至るまで従ってくれた、ただ一人の臣、物部連麻呂にいった。
「いったい私が叔父上に何をしたというのか」
 大友には、ここ一か月の運命の激変がどうしても理解できなかった。
 ここ近江に大津京を開いた父天智天皇が、昨年末崩御した後を継いで五ヶ月、事実上の天皇としての責務に努め、その仕事始めともいうべき先帝の陵墓建造に取りかかった矢先、乱は起きた。吉野に隠棲していた叔父の大海人皇子が、
「陵墓建設の人夫にあらず。私を討つための軍兵」
 と、思いもかけぬ、言いがかりともいうべき言葉とともに、六月二十四日、嵐のように吉野を出て、東国で挙兵、怒濤のように軍兵を近江へ迫らせた。大友は、大海人の電光のごとき行動の意味がのみ込めないまま、対策は後手後手に回り、ついに一か月後、瀬田川の陣を含め都を守る全ての陣を破られ、今日七月二十三日、大友は最期の時をむかえたのであった。

 呆然として死を迎えねばならなくなった、この心映え直ぐなる若き君主に、忠実なる物部麻呂は、今は包むことなく事実を認めさせることが、せめてもの最後のはなむけ、と決意していった。
「叔父君、大海人皇子様が是が非でも皇位をおとりになりたかったのでございましょう」
「しかし、叔父君は、父君のご臨終の枕辺で、皇継を辞退されたのではなかったか? 父天智崩御の後は、皇后倭姫を即位させ、私を皇太子にするようにと進言され、ご自身は出家して吉野にこもられたのだ」
「それはご本心ではなかったはず。大海人さまを宇治まで送った蘇我赤兄などは、『まるで虎に翼をつけて野に放ったようなものではないか』と申しておりました。いつか大海人様が兵を挙げ、皇位を奪還されるであろうとは誰もが予想していたことでした」
「知らなかったのは私だけか・・・。陵墓造営の人夫を、叔父君が、吉野を攻めるための軍兵と誤解されたと聞いて、私は誤解を解こうと必死であった」
「大海人様は誤解されたのではございません。あなた様が本当に父君の陵を作られるために人夫を動員されたことは、百もご承知でした。大海人様は、ただ挙兵の口実が欲しかっただけでございます」



  
大海人皇子が翼をつけた虎になっつて吉野へ飛んでいった宇治川にかかる宇治橋


        
                           
                  
 
宇治橋断碑
  
宇治橋が大化2年に架けられたいきさつを格調高い名文で示す石碑。
  
江戸時代に発見されたが上1/3の断石のみであったが「帝王編年
  
記」に記されていた原文をもとに再現した。
         
   



「叔父君が吉野を出られ、東国の不破に陣を布かれた後でも、私は信じられなかった。あの偉大な方が、私を殺して皇位を奪うなど・・・。それに私の妃は、叔父君の愛娘、十市皇女なのだ」
「大海人さまは、あなた様が敵の娘だからといってお妃を殺すような心の狭い方でないことも、よくご承知の上でのことです」
「それほどまで私という人物を知っている方が、どうして戦いを挑まれるのであろう。天の下知らしめすつもりなら、私は皇位を譲ったであろうに」
「いいえ、それはできないことなのでございます。あなた様がそのつもりでも、先帝(天智)の臣下が承知いたしますまい。たとえ大海人さまが即位されても、あなた様が存命でいらっしゃる限り、先帝の臣下が必ずや、あなた様を擁立する戦いを始めましょうから」
「では、私が出家して吉野にこもればよかったのか」
「いいえ、それも無駄でしょう。あなた様は、お父君天智帝が一度、皇太弟とお決めになった大海人様を廃してまで、皇統を継がせたいとお思いになるほど優れた皇子さまでいらっしゃいます。近江朝には、あまたの皇子がいられますが、文筆をとっても、剣をとっても、臣下の人望も、あなた様の右に出る皇子はいられますまい。大海人様は、そのことを恐れられているのでございます。皮肉でございますなあ。聡くお生まれになったがために、この悲運を受けねばならないとは」
「私の存在そのものが、叔父君の邪魔になるのか・・・」
「大海人様は、むしろ、あなたさまを愛しくお思いでいらっしゃいましょう。なればこそ十市皇女さまを娶せられました。そして今、ご自身の野望を貫くために、あなた様を葬らねばならないことに、心を痛めていらっしゃいましょう」
「それでも、私を殺す?」
「はい、心痛めながら、どうしてもやらねばならないのでございます。あなた様の父君が着手された律令国家を完成させるには、あなたはまだお若い。大海人様の満々たる力量でなくては完成は遠いものとなりましょう。どうしても今、大海人様が即位しなければ国家建設が立ち行かないのでございます。天の下知らしめすということは、そういうことでございます。あなた様の父君も、大化の変後、そうして天の下を掌握されました。古人皇子、有間皇子さまなどが、あなた様と同じ運命を辿って葬られていきました」
「そうであったのか。叔父君は、私を憎んでいなくても葬らねばならないのか・・・」
「・・・・」
「麻呂よ。よく分からせてくれた。汝に諭されなければ、私は、訳の分からぬままに、もがきながら死なねばならなかった。この上は、汝は、私の首級を速やかに叔父君の前に出し、乱の終息をつげるがよい。ただ一つ心残りは父帝の御陵を私の手で造ることができなかったこと・
・・」

 二十六日、大友皇子の首級は、不破の宮の大海人の前に据えられ、壬申の乱は終焉した。文武に秀でた貴公子はこのとき二五歳。大海人は飛鳥に凱旋し、天武天皇として飛鳥浄御原京に即位したのであった。


 「壬申の乱」の発端となった「天智天皇陵」は、その後、天智天武の孫に当たる文武天皇の三年(六六九)造営が継続され完成した。その文武天皇も、その翌年、二十五歳の若さで崩御している。デリケートな性格と伝えられる文武天皇は、同じ年頃の、悲運に倒れた伯父に当たる大友に心通わせるところがあったのかもしれない。
 京都府山科区の京阪「みささぎ駅」近い陵は、行けども行けども森の奥深くに、上円下方墳として鎮もっている
 悲運の皇子、大友皇子は、その自ら縊れた場所すら明確ではないが、明治政府は、弘文天皇と追号し、大津市御陵町にあった古墳を「長等山前陵」として弘文天皇陵とした。大津市役所の裏、三井寺の深い森の中に、弘文陵はひっそりとある。
     
  
三井寺の森影にひっそりとしづもる弘文天皇陵

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